その日は強かに酔っぱらって帰宅した。
燎がアパートへ帰りつけたのは、ほとんど無意識の帰巣本能だった。
屋内階段を上がって玄関の鍵を開け、乱暴に靴を脱いで廊下を這って歩く。
自室への階段を上がるのが億劫だった。
燎はジャケットとジーンズを脱ぎ散らかして浮腫んだ筋肉を解放すると、赤Tシャツにトランクス姿でリビングのソファーに沈没した。
燎の意識は真っ暗な泥沼へと引きずられて行く。何度か落ちかけた死への階段に似た闇へ。眠りと死の境目は一体どこにあるのだろう。そんなつまらないことを考えながら枕代わりのクッションを抱けば、綿の塊は燎の腕力になされるままに形を変えた。
だが、抱えても少しの重さも温もりもないそれは、求める肌ざわりとは程遠かった。
瞼の奥で空想し、指先で未だ幻の肌をまさぐる。
栗色の髪を梳き、唇を撫でて、この指を可愛い舌で舐めさせたなら、香はどんな顔をするだろう。濡れた指で喉仏から胸の谷間、臍へと真っ直ぐ撫で下ろしたら、香はどんな声で啼くのだろう。そして香自身すら触れがたいであろう蜜壺をこの指で暴いたとしたら…
そんな妄想だけで燎の下っ腹に熱が走った。
けれど、本当に抱き締めたなら、もがき苦しませ、粉々にしてしまう気がする。そう考えたら頭の中で舞っていた香の姿が闇に消えた。
背筋に走った悪寒に震え、ぐっと拳を握れば、瞼の奥にまた闇が広がり、睡魔が燎を呑み込んでいった。
「ほら、急がなきゃ。」
耳元で妙に甘い声が響いた。
気怠く瞼を押し開けば、そこには、バニーガールスタイルの香が立っていた。
右手にミルクパン、左手にゴムベラ
「は?」
「あぁ、間に合わないわ。」
燎の鼻先へぴょんと近づき、トロリと溶けたチョコレートをゴムベラで掬い上げた。
「すぐに出来るから、動かないで。ね?」
「え?」
見れば、燎のもっこりにチョコレートが塗りたくられている。
「チョコバナナを食べるのよ。」
「へ?」
香の手から飛び出したミルクパンとゴムベラに足が生えて踊り出し、ケラケラと笑っている。
香が茶色いもっこりに手を伸ばし、そっと握った。
「かおっ…?」
(ウソだ、ダメだ、絶対にダメだ。てか夢だ!しっかりしろ、俺!)
燎は必死に頭を振って腰を引こうとしたが身体が動かない。近づいてくる紅い唇から目が離せない。そうこうしていると、香の指がもっこりに塗られたチョコレートをしごき上げ、白い指にドロリと茶色の物体が絡みついた。鼻につく甘い匂いが広がり、燎は我慢の糸がキュキュッと音を立てて伸びる音を聞いた。
「美味しそう。」
「ちょ。」
丸く開かれた唇から濡れた舌が覗く。
何をする気だと叫びたいのに喉が詰まって声が出ない。
それどころか溢れんばかりの生唾で窒息しそうになる。
「舐めちゃうね。」
(ダメだ!ダメだダメだダメだ!いくら夢でもいきなりそんなのダメだ!)
燎の我慢の糸がプップッと音を立てて切れ始め、もっこりが破裂寸前の太さになった。
それでも声にならない叫びで香を振り払おうと足掻いてみたが、腕が重くて動かない。
「か…おり 。やめ…」
掠れ切った自分の声で、ハッと目覚めた。
天井を照らすオレンジ色の常夜灯が目に染みて、現実に戻ったことを知る。
下衆な夢だった。いくらなんでも酷すぎる。
燎は脇の下にも額にも嫌な汗をかいていた。
原因に心当たりはあった。最後に行ってバカ騒ぎをしたゲイバーだ。絶対にそうだ。
テーブルに並べたチョコバナナをパン食い競争よろしく争って食べるゲーム。あれだ。
額に浮いた脂汗を拭おうとしたが、腕が上がらない。何事かと自分の腕を見た燎は、その光景に目を疑った。
(は…? 香…?!)
香は燎の二の腕を枕にして寝息を立てている。
つまり、腕枕。
長い睫毛は焦点が合わず、ボケる程に近い。近すぎる。燎は何度も目を瞬かせ、息を飲んだ。息を詰めると心臓が暴れた。仕方ないから深呼吸する。
まさか、正夢ということはないよなと恐る恐る見回すが、ミルクパンもゴムベラもない。
香はいつもの色気のないパジャマ姿だ。
床に座り込み、燎がソファに投げ出した左腕に手を添え、頬を乗せ、気持ちよさげに眠っている。
燎は天井を眺めながら深く息を吸うと、安堵とも失望とも分からない溜息に変えて吐き出した。
(それにしても、なぜここに?)
香を起こさぬよう辺りを見回してみれば、腹に絡みついたカーキ色の毛布が目に入った。
(あ…そういうこと、か。)
酔っぱらって帰宅してソファーで眠ってしまっても、いつの間にか毛布が掛けられることは多々ある。今夜もそういうことらしい。
こんなに深酒をして、正体不明で眠るなんて以前は考えられなかった。
どこにいても、誰といても眠りは浅く、愛銃は手離さない。
何十年もそうして眠って来たし、それ以外の眠りなど知らなかった。
腕に触れる香の頬が柔らかい。
燎は香がなぜこんな風にうたた寝をしてしまったのか一秒だけ悩んだけれど、二秒目にはそんな事はどうでもいいとあっさり放棄した。
密やかに自分の呼吸を香の寝息に重ねれば、まるで子守歌に身体を包まれたように心地よかった。
リビングに響くのは、香の寝息と規則正しく進む時計の秒針の音だけ。
(少しだけ…)
少しだけ、この甘い熱を味わいたい。
静かに首を傾ければ、視界はほんの少し唇を緩めた無警戒な香の寝顔で一杯になった。
愛おしい。
知らず知らず口の端に笑顔が浮かぶ。このまま香を見つめていたいが、風邪をひかせたくもない。燎は自分の腹の毛布を香に掛けてやろうと試みたが、身体を捩じれば腕が動いて香を起こしてしまう。目覚めて欲しくない。ならば足でと足掻いてみたが、もたついてこれも上手くいかなかった。
(参ったな…)
実は困ったことなど何もない。このまま朝まで眠ってくれて構わない。構わないけれどこの状況で冷静を保てる自信はないし、かといって夢見心地の香を押し倒す勇気もない。今更強調することでもないが、燎はすっかり香に参ってしまっていた。
一体どうしたものかと天井を眺めたら、香がふっと息を浅くした。
目覚めそうな気配に、燎は慌てて狸寝入りする。
「ぁ…いけない。寝ちゃった…」
香は燎の腕から頬を離し、まだ眠る燎の頬をつついてみたが目覚める気配はない。
「もう…。飲み過ぎだよ。」
香は燎の手を取ると、そっと自分の頬に当ててみた。自分の手より一回り大きくて熱い掌は、香の頬をすっぽりと包んだ。
温かい香の頬に燎は我慢が効かず、指先でわずかに香の耳朶を巡った。
夢の中ではいたぶる様に抱く時もあるくせに、現実は指先が震えるほどに臆病だ。
指先に触れる香のやわらかな耳朶。それだけで燎の身体は疼きを覚えた。
(燎ぉ…?)
寝ぼけているのか、それとも…?
燎の指先に触れられ、香は戸惑いながらも胸を高まらせえゆく。
「ん…っ」
燎が人差し指の先だけで何度も何度も柔らかな耳朶を撫で擦り、弄ぶと、熱を帯びた香の吐息が燎の額にふわりと広がり、堪らない疼きがザワザワと音をたててもっこりへと駆け上がってゆくのが分かった。
(ダメだ、これ以上…)
燎はごくりと喉を鳴らして唾を呑み込むと、必死に手の力を抜いた。
不意に離れた燎の指先に、香は溜息を吐く。
「…寝ぼけたの? 燎…。」
誰かとお楽しみの夢でも見ていたに違いない。
先程まで自分の耳朶を撫でていた指先が口惜しくて、香は小さくキスしてみせた。
「気づくわけ、ないか。」
キシキシと廊下を鳴らしながら香の気配が遠のき、パタンと扉の閉じる音がした。
再び静寂に包まれたリビングで常夜灯に目を凝らせば、オレンジの明かりが目に染みた。
(ばぁか…寝ぼけたフリだって分かれよ。)
次はきっと寝ぼけたふりなど出来ない。
次こそはきっと押し倒してやろうと密かに誓い、燎は眠れない夜に瞼を閉じた。
テーマ : 二次創作:小説
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